世界的スイマーであり、高名なスポーツ心理学者でもあるキース・ベル博士は、その著書のなかでこんな文章を書いている。
「『苦痛』を自らに課すことは、水泳で成功をおさめるためには不可欠である。もし速く泳げるようになりたいのなら、『苦痛をあえてうけとめなければならない』」
この言葉に反対するスイマーは、まずいないだろう。
水泳競技で成功するためには、苦しく単調な練習を、ごく日常的に繰り返さなければならないのである。
きっと、あなたも一度や二度はこう思ったことがあるに違いない。
「いったいわたしは何のためにこんな辛い練習を繰り返しているのだろう?」
「辛いばかりで一文にもならない練習を、なぜ続けているのだろう?」
もちろん、わたしもその一人だ。
中学生や高校生という若い時にもそう思ったし、60才を越えた今でもそう思う。しかし今なら、わたしははっきりとこう答えられる。
「そう思っても止めないし、泳げる限り泳ぎ続ける」と。

わたしだけでなく、苦しい練習を繰り返しながら、たくさんのスイマーが日々練習している。
ジャパンマスターズなら六千人のスイマーが参加し、花形となる50m自由形だけで三千人の選手が泳ぐ。ジャパンに参加していないスイマーも含めると、信じられない数の人たちが、毎日水の中で苦しさを味わっている。
中学や高校の生徒なら、練習すればするだけ技術や記録が伸び、苦しいけれど充実感に満ちた練習となる場合が多い。しかし、マスターズの選手で60才も越えると、なかなか記録は伸びてこない。それどころか、記録が後退していく道程での練習となる場合すら多い。そんな中、なぜたくさんのスイマーが練習を続けるのだろう。
そんな疑問に答えるため、まずわたしの水泳履歴からスタートしてみたい。
小学校五年生の時、わたしの通う小学校に初めてのプールが作られた。もちろん野外プールで、当時はまだ温水プールという存在などほとんど知られていなかった。
歴史ある小学校に造られたということで、教師たちがスポーツの得意な子供たちを集め、水泳部を結成した。わたしもそこに選ばれた一人だった。正直なことを云うと、水泳は決して得意ではなかった。スポーツは得意だったが、体操競技や陸上の短距離走の方が遙かに才能があったと思う。
だから、水泳で伸びるためには努力が必要だった。何もしなくても敵無しの鉄棒やマット運動などと違って、頑張らないとうまく行かなかった。それがおもしろかったのかもしれない。
同級生に一人、傑出した運動能力を持つ友人がいた。鉄棒なら彼を越えられても、水泳ではなかなか彼を越えられなかった。
そんな小学六年のある水泳大会で、ようやく彼に勝った。そして有頂天になってはしゃぎ回り、プールの裏に走り出た。すると、その草むらで、彼が泣いていたのである。
最初、彼がなぜ泣いているのか、わからなかった。しかし、そんな姿にショックを受け、見つめているうちに「わたしに負けたから泣いているのだ」という思いがこみ上げてきた。そして、気付くと自分の目にも涙が浮かんでいた。
中学に入り、彼は体操部で大活躍し、わたしは水泳部で地道に練習を重ねた。中学二年の時、わたしの中学に転校してきた素晴らしい水泳選手が良きライバルとなってくれ、日々彼と競うことで、市で優勝し、県でもトップクラスの水泳選手になることができた。

高校に入り、水泳に懸けたわたしは、泳ぎすぎて体を壊し、泳げなくなった。人生で初めての大きな挫折だった。半年近く休み、高三でふたたび泳ぎ、かろうじて県で一番になった。
やがて大学に入り、フリースタイルスキーに出逢った。取り憑かれて、狂ったようにトレーニングを始めたのである。
水泳と違って、フリースタイルスキーはやればやるだけ結果が出た。あっという間に全日本選手権で優勝し、ワールドカップにも出場するまでになった。そんな上り坂の途中、ヒザに大怪我を負ったのである。
当時の医学では、「再起不能」と考えられる怪我だった。
その長い入院期間に考えたことがある。
それは、人と争えば他人を傷つける。
自分と争えば、自分を傷つける。
結果にこだわれば、結果は遠ざかる。
スキーというスポーツには、たくさんの外力と環境が絡んでいる。それは雪だったり、山だったり、地球の引力だったり、遠心力だったり、風だったりする。
だから、スキーは「地球との対話が必要なスポーツ」だと、わたしには信じられる。
それにくらべ、水泳は「自分の内側と対話するスポーツ」ではないだろうか。
水という、人が動物として進化した最古の環境によって、そして母なる子宮の環境によって、『他』と分けられ、たった一人で自分の内面・・・心や肉体・・・と対話するスポーツではないだろうか。
水の中は静謐で、重力もなく、至って特殊な環境なのだ。
わたしは瞑想を趣味にしているが、泳ぎながら・・・特にダウンをしながら・・・時々こう思う。
「水泳以上に深いレベルの瞑想は存在しないのではないか」と。
自分と対話したいから、わたしは泳げる限り泳ぐ。自分の心と肉体ともっと仲良くなりたいから、そして少しでも行きたい所に近づきたいから、もしくは居たいところに留まりたいから、生きている限り、泳ぎ続ける。
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